湖への道


f:id:Takao2aw:20231207154856j:image
湖への道                     高尾周一

 

 

 

 

 

 

 小仏城山は、五本の道を束ねている。

今登って来た高尾山、一丁平からの尾根道は、春、薄ピンクのヤマザクラを高く盛らせ、風に舞う花弁で縦走者の足を止める。

高尾山に飽き足らないリピーターは、奥高尾と呼ばれるこの道の長い階段に息を切らせ、時には立ち止まりながら幾度となく訪れる。

山好きの強者は、さらに尾根伝いに小仏峠、景信山、陣馬山へと足を延ばす。

 高尾山からを一路、小仏峠への道を二路とすれば、三路は高尾山からの最後の階段の手前、左から繋がる大垂水からの道である。沢を渡り林間を歩き、エビネ、ベニバナヤマシャクヤク、キンランに誘われ登って来る。

四路は相模湖からの道。甲州街道は、大垂水峠を抜けると相模湖へ下る。相模湖から流れる相模川沿いの千木良の里へ、吊り橋である弁天橋を渡り、長尾山を越え小仏城山へ辿り着く。所々で赤い涎掛けのお地蔵さんが迎えてくれる。

五路は相模湖からの道の反対側、旧甲州街道の日影からくねくね登って来る日影沢林道。作業車が通れる林道だが、舗装は凸凹に荒れている。一丁平や高尾山を遠望でき、道端には山野草が自生するので、植物ファンに人気の道だ。

漸く最後の階段を蹴り上げ、城山へ両足を乗せた。この先どこへ足を向けるかはたと考える。冬は景信山まで行けるが、夏はきつい。

 見ると茶屋の向こうの作業場の隅に男がいた。木の板が二枚無造作にテーブル然と渡され、丸太の切り株が椅子代わりに並んでいる。男は七十歳代前半だろうか、信二が来ると必ずいる。毎日来ているのだろう。

「いた、いた」

 小ぶりのリュックを背負った高齢女性が日影沢林道から現れ、男の方へ寄って行く、後から二人。輪になって座り、弁当を食べ始める。男が毎日いるからリピーターの同年配が集まるようになったのだ。

信二は男に軽く会釈する程度で、車座には加わらない。楽し気な笑い声を聞きながら通り越し、反対側の雑然と木板のテーブルが並ぶ一隅に腰を下ろす。

 

「この景色いいですよね」

 男に初めて声を掛けたのは、一丁平から小仏城山へ登る北側の巻き道。高い草を払いのけ、北東尾根が展開する崖に来たら、目の前で男が遠景を眺めては、鉛筆を挟む右手を動かしていた。

 信二の声に、立ったまま素描していた男は、軽く頷いた。

「失礼しました」

細い道の一段高い溜まり場に立つ男の後ろを、信二は通り抜けていった。

茶屋の奥の作業場然とした隅で、男を囲んで高齢女性たちが集まり、お弁当を楽しむ光景をその頃から意識するようになり、弾ける会話から男の名を丹羽と知った。

 

今日も、弁当会の賑やかな声が、背中から風と共に聞こえてくる。カット海苔にご飯をよそい、カツ節をかけラップで包んだお握り二個が信二の昼の定番。

個包装のチョコをいくつも食べ、景信でも高尾山への戻りでもない、相模湖、千木良の里へ下りようと立ち上がった。

相模湖からの道は隊長に連れられてみっちゃんと何度か来た。お地蔵さんが点在するが険しい道で、毎度やっとの思いで城山に辿り着く。

退職した当初、歩き回っていた隊長が二日続けて登っていたら、

「あんた、昨日も来たろ」

 と、下りて来た地元のおっちゃんに誰何されたというエピソードを、毎回思い出して笑い合う道だ。

 階段を大股で下り続け、時には横向きに右足、左足を同じ段に揃えて慎重に下る。やがて瓦礫と木の根っこが張り出した道、ひっかからないよう足の踏み場をさらに慎重に選ぶ。

左右の森も深い。高尾山でいえば霞台への近道である病院裏道をさらに荒々しくした感じか。病院裏道で鍛えなければと改めて確認する。五十分も下ったか、漸く千木良の里、道路に出た。

ここからまた細い山道へ入り、右手下方の吊り橋、弁天橋を渡っていく。太い相模川を繋ぐ吊り橋は誰が写真を撮っても絵になる。

右から現れ左へ蛇行する相模川を見下ろし、吊り橋のロープを見て一瞬身を固め弁天橋に入っていく。だいぶ慣れたが元々高所恐怖症である。橋から抜け、身を緩め、きつい坂を登り道路に出る。

相模湖の水力発電所を過ぎ、大橋を渡って無事に駅に着いた。炎天下、一人でよく歩いた。

 

 今日は隊長、みっちゃんのいつものメンバーに加え、信二の高校時代の友人、植松が来る。友人と言っても信二が半年も在籍しないでやめてしまった軟式テニス部で一時を共に過ごしたに過ぎない。

社会人時代も付き合いは全くなかったが、還暦を迎える頃、何かの拍子で軟庭の仲間三人で新宿で飲み、意気投合し弘法山、大山を登ってきた。植松は中学時代に生徒会長をやっていたので、軟庭部では会長と愛称で呼ばれていた。

 高尾山口駅の改札から、入道頭がぬっと現れた。植松は剃っているのか坊主刈りとは違う。目で頷き合って本人と確認し合う。みっちゃん、隊長に名前を伝える。

「じゃあ行きますか、城山行くんですよね、いつもの道でいいですか」

 隊長が歩き出す。信二は植松と歩く。植松の足取りは強い。

「俺は、毎日五㌔走ってんだぜ、ジムでゆっくりだけど」

 ジム通いは以前会った時に聞いていた。週一だったはずだが頻度は増しているようだ。鍛えているだけあって、病院裏道の瓦礫坂も植松は怯まず登る。

 そもそも植松は前を進む隊長と同じ、一人で新しい道を進める人だ。臆病な信二は何度もみっちゃんも含め三人で通った、教えて貰った道を後日一人で歩き、やったー感に浸っている程度。

 植松は秩父に一人で行き、石をとんとんと飛び、行き止まりと分かり振り返って戻ろうとした瞬間、崖下に滑り落ち、登れる崖ではないので沢を下って何とか道に出たという武勇伝を持つ。高価な腕時計を滑り落ちる時に失くし、(もう山には一人では行かない)と宣言する。

 もっともな決断だが、最近信二はその話を思い返しては、もし信二が一緒だったら、仮に隊長もいたら、滑落した植松を遥か下に見てどうすれば良いのだろうと考えてしまう。高山なら即連絡し救助を要請するしかない。低山でも電話が通じるとは限らない。通じればまず植松に電話し具合を尋ね、そこで救助を待つか決めるのか。

 ごちゃごちゃ考えているうちに霞台に着いた。薬王院でレンゲショウマが咲き始めたが、今日は植物好きはいないので急な石段は登らず、木に覆われ涼しい富士道を行く。城山まで遠いので高尾山も巻いて、もみじ台の北の巻き道をゆっくり下り、その後も巻き道を辿り一丁平のトイレ裏に出た。

 茂みを横切り、東屋とまでは言わないが屋根のある木のベンチに四人横並びに座った。ここから城山までの二、三十分の石段がきつい。ただただ空に向かって登り続ける。最後の頑張りの前に一息つくのに絶好な場所が一丁平だ。信二はリュックから取り出したクッキーを、みっちゃん、隊長、植松に手渡す。

「植松はリタイア前に学芸員の資格取って、文学館なんかに応募したんだよな。でも結局若い人採るから」

 ざっくばらんにどんな人物かエピソードを披露したつもりだ。

「今は、博物館で子供に藍染教えてんだ」

 植松が近況を語ってくれた。

「へええ、藍染って難しいんでしょ」

 みっちゃんが食いつく。良かった、初めてやってきた植松が溶け込んでいく。

みっちゃんは人形の洋服を作るのが趣味だ。可愛い服はネットに出すと即座に売れる。だが商売にするのは嫌で、気が向いた時に思いついた好みの服を作る。藍染にも響くものがあるのだろう。

「詳しいことは分かんない、ちゃんとした専門家がいて、俺は見てるだけ」

「好きな人は好きなのよねえ」

「明後日は拓本。拓本取りの練習ずうっとやってきて、明後日が本番」

「拓本?何じゃそりゃ」

「簡単には説明できないよ」

植松は、博物館詰めで大忙しの様子だ。

「じゃ、行きますか」

 隊長の声に小休止も幕、日の当たる石段に出、ひたすら登る、腿を上げ、足元だけ見つめがちになってしまう。

 電波塔の立つ頂上が見えて来た。最後の石段を喘ぎ、左手に茶屋の赤い幟が靡いている。氷をやっている、名物のジャンボかき氷。初めて来たときはお腹の弱い信二は迷い、一人だけコーヒーを頼んでひ弱振りをアピールしてきたが、今では夏の山の氷はペロリと平らげる。変われば変わるもの。

 茶屋の前のベンチは氷客で混んでいる。

「どこにしましょうか」

 隊長が見回していると植松がずんずん裏の方へ進む。裏の作業場の隅では、男を囲んで弁当会が始まっている。植松は数メートル離れた木のベンチに座った。

「お疲れさまでした」

 隊長が熱い紅茶の入った銀の水筒を差し出す。夏でも熱い紅茶が旨い。

「氷は食べてからですね」

 信二はそう呟き、持ってきたカップに紅茶を注ぎ、お握りのラップを剥がす。

植松はコンビニで買ってきただろうお握りセットを黙々と食べ、元々無駄口を叩かない隊長、クラシック音楽、手芸以外に興味がないみっちゃんでは沈黙が続くだけ。

いつもいる男の一団からは笑い声が絶えない。

「拓本って何すんの」

 信二は植松に一丁平での話の続きを求めた。

「えーとねえ、結構大変なんだよ、ずーっと練習してきて、今度が本番で」

 植松は二つ目のお握りを口に持っていく。

「お寺とかにあんだろ、古い何書いてあんのかわかんない石碑みたいの、あんなのお寺が持ってきて、こっちは霧吹いて、墨みたいの塗って、半紙でやると出てくんだよ」

「へえー、面白そうね」

 みっちゃんが植松の入道顔を見上げる。信二には拓本の原理は分からないが、鍛錬が要ること、お寺でももはや何が書いてあるのか分からない古い石があるのかとは理解した。

「あっ、そういうことか」

 隊長は、一人頭の中で拓本の原理を考えていたようだ。

「それで、明後日が本番なんだよ」

 茂る高木からけたたましい鳥の鳴き声が降って来る。こんな暑い夏にも鳥はいるんだ、信二はご苦労さんと慰労したい気分。

「食べたら、氷ね」

 信二は再び誰にともなく呟き、ラップにへばりついたご飯粒を指で集め、グレープにするか、やはり色を考えたら、

「メロンかなあ」

 と声を出していた。

「兎に角でかいなあ」

 茶屋の木板のテーブル席で、聳え立つかき氷をスマホで撮る人々を見て、植松が改めて感嘆する。

「拓本をやられるんですか」

 力のこもった声に驚いて見上げると、男が立っていた。植松の左横。植松は入道頭を男の方に捻り、怪訝な表情のまま、

「えっ、まあ」

 と頷く。

男が何で近寄って来たのか。信二だって親しい訳ではない、今この席に座る時さえ、軽く会釈して男達の一団の前を過ぎたが、男は反応を示さなかった。

一丁平から城山への巻き道で、北東尾根をスケッチする男に声を掛けたが、その時のことさえ、果たして男は覚えているのかどうか。

「丹羽さん、この辺の主です」

 想念とは裏腹に、信二はすっくと立ち上がり、男を三人に紹介していた。

「私のことを、ご存知なんですか」

「そりゃ、知らなきゃ潜りですよ、一応、私もしょっちゅう城山来てますからー。植松です」

 丹羽さんに紹介するが、植松は座ったまま、隊長から貰った紅茶を一口啜る、不愛想だ。

「すいません、お話が聞こえてきて」

「いえ全くかまいませんよ、むしろお話しさせていただけて光栄です」

 信二は相手を持ち上げるのが好きだ。

「そうですか、お言葉に甘えて」

 丹羽さんは、少し離れた木板のベンチの端に腰掛けた。

「私は、この辺りをスケッチするのが趣味なんですがね」

「この人、有名な画家なのよ」

 丹羽さんを囲んでいた小柄な女性が、あちらから声を掛けて来た。

「そんな凄い方なんですか」

 信二は、大げさに驚きの声を上げたが、ある程度予想していた気もしている。

「そんなことないです、ただ好きなだけで。そうだ」

 丹羽さんは立ち上がり、自席に戻るとリュックを開け、スケッチ帳を手に戻って来た。

 自然と信二が受け取っていた。両手で崇めて礼をし、表紙を捲ると、花の素描が出て来た。

モノクロの鉛筆画なのに、信二にはその花の名が一目でわかった。透明な白い薄い花弁が首を垂れて下向きに開き、中心の花弁には紫色がさしている。繊細な薄い花弁の白と紫。花の側に膨らんできた丸い黄緑の蕾が吊り下がっている。その光景を鉛筆画で体感させるのだからー。

「レンゲショウマですね」

「よくお分かりですね」

「高尾山来るようになって、山野草好きになりました」

 自慢げに答え、ページを捲る。

北東尾根が現れた。信二が丹羽さんと初めて出会った時に描いていた景色だろう。

整然と立ち並ぶ杉がモノクロの陰影で一本一本ツリー型に膨らんでいる。その中に左から右に抜ける日影沢林道がすっと引かれ。一方で手前の足元は、谷間に吸い込まれそうな危うささえ覚えさせる。

「北東尾根、初めてお会いした時のでしょうか」

 信二が丹羽さんに視線を移すと、丹羽さんは黙って頷く。信二をあの時から覚えていたとは思えないが。

次は湖への道だった。ビュースポットから見下ろす相模川へ架かる吊り橋、弁天橋も鉛筆の素描は川からの冷たい風と揺れを感じさせる。

 丹羽さんが、信二が見入るスケッチ帳をさらに何枚か捲り、

「これなんです」

ページのひと隅を指差す。植松が立ち上がって覗き込む。

 画用紙には赤い涎掛けのお地蔵さんが描かれている。麓から山道に入っていくたまり場でよく見かける光景。湯呑や花が供えられ、辺りは樹木で覆われ、岩が露出し。

 だが丹羽さんの指はお地蔵さんではなく、その左、苔むした石垣を指している。

「ゆっくり見せていただいていいですか」

 信二が座ると、みっちゃんがスケッチ帳を掴み、引き寄せ、

「これいつも見てるじゃないの」

 と、直感で見慣れた場所と錯覚した。病院裏道に整然と並ぶお地蔵さんたちだと。

「千木良の里から弁天橋への途中なんですけど」

「どこのかは分からないけど、お地蔵さんって登ると必ずいるじゃないの、北高尾にも」

「そりゃお地蔵さんは山にいくらでもいらっしゃるけど、この石垣の方だよ、丹羽さんが指差してるのは」

 信二は、独特の感性で判断するみっちゃんを宥める。

「この石垣の石に何か書いてあるんですよ、彫ってあるんです。古すぎて、苔むして私には分からない、でも気になるんです」

「拓本っていっても、我々がやるのはお寺なんかが持ち込む、しっかりした石碑みたいなものですから」

 植松が意図を理解し、丹羽さんに向かって答える。

「いいじゃないの、明後日取りなさいよ、拓本の本番なんでしょ」

 こうなったらもうみっちゃんのペースだ。何か勘が閃いて面白い方向を確信している。

「あの道を下りていくんです」

 丹羽さんが振り向いて相模湖への道を指す。その方角には雪を被る青い富士山が、冬には鮮明に現れるが、夏空では全体が白く霞んで薄っすらした影すら探らせない。

「久しぶりに相模湖へ下りますか」

 隊長がリュックを片手にかけ、腰を浮かせる。隊長がせっかちなのは百も承知だ。

「こおり」

 と、信二。

「ぜひ食べて行ってください、ごゆっくり、その後に私がご案内しますから」

 丹羽さんが慌てて隊長を座らせる。

 信二はグレープ、みっちゃんはマンゴー、隊長と植松はイチゴを注文し、シロップをキューっと容器ごと絞って掛けまくり、あっという間に平らげた。

 隊長、丹羽さん、植松の順で大股に階段を下りていく。長い階段が漸く瓦礫道になる。高尾山の病院裏道よりさらに険しく、周りの森も深い。

 一時間近く下ったろうか、前を行く三人は瓦礫をものともせず速足で下りていく、姿が時々見える程度。丹羽さんも年齢を感じさせない足取り。千木良の里へ出た。

平らな土地を歩き、バスも通る国道を渡り、弁天橋が架かる相模川への細い山道へ再び入る。

 砂利道を下っていくと、たまり場に三人が立ち止まり丹羽さんが指差す石垣を覗き込んでいる。

相模川に架かる吊り橋、弁天橋を見下ろせるビュースポット。赤い涎掛けのお地蔵さんが佇み、その左手の崖の下部が石垣になっている。

「お待たせしました、どの位待ちました。五分くらい?」

 長い下り道の後では、待っている隊長に信二は毎回尋ねる。

「そんなに、四分ぐらい」

 と、答えるのが隊長の常だ。

「これなんですがね」

 丹羽さんが信二とみっちゃんにも説明してくれる。石垣と言えるのだろうか。崖を食い止めるために、しっかりと石を組み、セメントで目地を固めているのとは訳が違う。

丹羽さんが指差す崖の一㍍四方だけ、メロン玉程度の石が埋め込まれている。草の葉に覆われ苔むしており普通、誰も目に留めない。

木の根が剥き出し石がごろごろする瓦礫道の、雑草だらけの崖の一隅に苔むした石が埋め込まれている。その一番上の列の一つの石を丹羽さんは大切そうに指差すが、お茶っ葉色の苔と細かい緑葉がはびこっているだけで、他の石と区別はつかない。

ここに何か拓本で取るべきものが苔の下に彫られているなど、絵描きだから気付けたのか。

「私たちには気づけませんよ、弁天橋、相模川、お地蔵さん、そちらに目が行ってしまってこの石垣の方なんて。光でもしたんですか」

 信二は丹羽さんの顔を覗き込む。いつもの生真面目な表情。

「昔、坊さんみたいな人が住んでいたって言い伝えがあるんですよ、それで毎回ここで休んでいたんです、その人のことを想像しながら」

「いつ頃の話しとか分かるんですか」

 植松が聞きたいだろうことを信二は尋ねた。

「はっきりとは、しっかり調べている人もいないので」

「持っていきなさいよ、明後日なんでしょ」

 言われた植松が首を傾げ、戸惑い顔で皆の顔を順番に見る。

「駄目だろう、許可とかいるんじゃないの」

 信二がネガティブを発揮する。

「お願いできれば有難いですが」

「禁止の札とかないから、いいんじゃないの、必ず僕らは返すんだし」

 隊長の一言でやはり決まる。

「いいのよ、誰も管理してないんだし、お坊さんも喜ぶわよ」

「いや公園課とかあんじゃないの、林野庁とか」

 自分でも嫌になる信二ネガティブ。

「じゃあ、直ぐに戻しに来るからな」

 植松がリュックを肩から抜きながら、苔むし石に頭を下げる。チャックを開け足元に置き。

皆が見守る中、苔むした鼠色の石を両手で包む。石はぐらついて手に納まった。何故かその石だけ隙間があったのか、簡単に抜け、植松の両掌に予定されていたように納まり、あっという間に黒いリュックに消えた。

残った土跡を、小虫が忙し気に這う。

「行くわよ、近いのはどっち?」

「戻るよりは、相模湖駅が遥かに楽」

 隊長の断に、

「それじゃ、私は戻りますので、今日は日影に下りますから」

「これから登り返せるんですか、驚異的ですね。電話番号とか教え合います?」

「いえ、いつもあそこにいますから」

 信二に答え、丹羽さんは、

「お気をつけて、宜しくお願いします」

植松にも会釈する。

「多分、来週の火曜日、雁首揃えて行きますから。植松も平気なんだろう」

「でも、あんまり期待しないでくださいよ、大体やらしてくれるかだって、お寺からのちゃんとしたのを正式にやるんだから、練習してきて」

 弁天橋を渡り暑さの中、駅まで歩き切った。

 

 木曜日、植松は今頃、拓本を取っているのだろう、いきなり持ち込んだ山の石を、レギュラーに紛れ込ませて取るなどできるのだろうか、気にしながら一日が過ぎた。

 夜、寝床のスマホにラインが来た。植松か、元々まめに連絡するタイプではないので、明日来ればと思っていたが。

(先日はお世話になりました。寄託された案件の回答が出ましたのでお知らせします)

 なんと硬い、ビジネスのやり取りか。

(書かれていたのは次の通りです。己をめでよ、己を生きよ、真明。なおいつ頃の時代に彫られたかは不明。最近の可能性もあるそうで、貴重な資料にはなりえないそうです、以上)

(ありがとうございます。歴史的な価値は認められなくても、意味が分かり丹羽さんは喜びます。真明は、そこにいたといわれる坊さんの名かもですね。山の中の石に何か彫られていたなんてロマンです)

(皆さん協力的で、今回だけということで取らせていただけましたが、専門家に言わせると、ほぼ最近になって誰かがそれらしく加工して埋めたのだろうとの見解です)

(そうだとしてもご苦労なことで、別に古くからの有難い坊さんじゃなくても貴重と言えば貴重かも)

(そうですね、いずれにしろ早々に元の場所に戻しに行きましょう)

 夜遅かったので、普段から翌日のスケジュール確認以外にラインを使用していない隊長、みっちゃんには翌朝知らせることにした。

 火曜日の朝、いつもの通り高尾山口で待ち合わせ。植松の入道顔が改札から現れると、

「お疲れさまでした」

 隊長が、おはようございます、の代わりに下山後の別れ際のような言葉で出迎えた。

「拓本無事に取られて、意味まで分かって」

「おはようございます、結構気軽にとらせてくれました」

 植松はリュックの両肩紐を両手でグイと持ち上げた。

「良かったよ、丹羽さんも喜ぶぞ」

「意味もいいわよ、己をめでよ」

 病院裏道の瓦礫を登る足取りも軽い、崖の麓に言葉が埋もれた石がありやしないか、そんな気さえしてくる。巻き道を使い、城山へ急ぐ。一丁平での休憩もいつもより短く、最後の石段を黙々と登る。みっちゃんの泣きも少なめだ。電波塔を見上げ、最後の石段を踏み上げ。

茶屋は賑わっている。氷、弁当を食べるハイカー。

左手から茶屋を回り、裏手の作業所へ。いた、いつものように女性たちも数人集まっている。

 信二は思わず手を振っている、丹羽さんは俯いている。隣の高齢女性が信二に気付いて丹羽さんに話しかける、丹羽さんが顔を起こし、目を見開き、立ち上がった。

「できましたよー」

 信二は大騒ぎ、後ろの植松のリュックを指す。植松がリュックを下ろす。丹羽さんは何度も植松に頭を下げる。高齢女性たちは顔を見合わせている。

「これです」

 植松がリュックからクリアファイルを取り出し、中からコピー用紙を丹羽さんに渡した。

「コピーなんですけど、綺麗に出ました」

 墨色の中に、白い細い字のようなかたちが流れている。苔むし石から取った、真明坊主の言葉。丹羽さんはコピーに見入る。

「なんだっけなあ、己をー」

 植松は覚えていない。

「めでよよ、己をめでよ、己を生きよ」

「そう、それです。でも古い物か、最近誰かが彫った物か怪しいらしいです」

 コピー用紙から起こした丹羽さんの顔が険しい。

「それで、しんめい、真実の真に明るいという字、いたという噂の坊さんの名前でしょうか」

 信二は怖い顔の丹羽さんに尋ねる。

「いやあ、地元の噂にすぎないし、何にも分かりませんよ」

 丹羽さんの表情にいつもの穏やかさが戻っていた。

「ありがとうございます、これだけでも貴重な資料だ、ありがとう」

「じゃあ、我々は戻しに行きますから」

 植松が背負っているリュックを揺さぶる。

「昼にしますか、その辺で食べて、それから行きましょう」

 隊長が、空いている天狗の彫り物の方の席を向く。

「私もお手伝いに行きますよ」

「大丈夫、しっかり戻しておきます、ご迷惑はかけません」

 信二が答える。

「そうですか、来られると思ってお待ちしていたんですが、今日は景信行こうってこの方たちが」

「この人の相模湖の絵もいいのよ、小仏峠や景信山からの」

「分かります、目に浮かびますよ、行ってらしてください」

 信二は高齢女性と笑顔を交換。

「このコピーは?」

「コピーですからどうぞ、本物は向こうが暫く保管するとか言ってんですよ」

 丹羽さんに頷いて、植松も隊長の目指す席へ歩き出す。

 お握りを食べ、隊長の紅茶を飲み、みっちゃんと信二がそれぞれ持ってきたクッキーを配っていると、丹羽さん達が会釈して小仏への道を下っていく。

 隊長、植松の順で相模湖への道を大股で下る。蝉の声が左右の森の遠く、下方から響く。階段、瓦礫道を延々とー。

隊長たちは速い、もう九十九折の先にも見えなくなった。信二とみっちゃんは五分は遅れてしまう。

蝉の声が左右、間近からわんわん降ってくるようになり、漸く千木良の里へ出る。隊長と植松が道路で待っていた。信号を渡り再び山道に分け入り、弁天橋を見下ろす、お地蔵さんと少し離れた場所の崖の一部だけ石垣になっているところ。

「ここだな」

 植松が覆う草を分ける。苔むし石の抜け後がくっきり窪んでいる。

「この前のままですね」

 隊長が土跡を確かめる。また細かな虫が慌てて動き出す。

植松がリュックをおろしチャックを開け、苔むし石を取り出し直立、背筋を伸ばし両手で額の上へ掲げ、頭を下げる。信二とみっちゃんも頭を下げる。

「貸して」

 掲げ終えた苔むし石を、みっちゃんが植松から当然のように受け取る。植松は呆気に取られている。

「自分に駄目だしせず、ごちゃごちゃ考え過ぎず、自分を生きろっていう意味よ」

 みっちゃんが苔むし石を土跡に置くと、何事もなかったようにすっぽり納まり、涼しい風が通り抜けた。

                             (了)